ゴッホを知る 6

次のようなことばは、アルル時代のひまわりの絵の、あの見事な黄金色の背後に閉じこめられていたものが、今やゴッホの自覚的な主題となったことをうかがわせるでしょう。


「仕事は順調に進んでいる。


いま発病数日前に手がけた或る画布にとり組んでいる。


これは草を刈る人の習作で真黄色、恐ろしく厚塗りをしてあるが、モティーフは美しく単純だ。


つまり、ぼくは、この草を刈る人のなかに・・・


炎熱のもと仕事をやりとげようと悪魔のように闘っている朦朧とした人物のなかに・・・


人間は彼が刈る麦みたいなものだという意味で、また死のかげを見たのだ。


だから、l言わば、これは前に試みた種まく人とは反対のものだ。


しかし、この死のなかには、何ら陰響なものはなく、純金の光にあふれた太陽とともに、明るい光のなかでことが行われるのだ」。

ゴッホを知る 5

サン・レミは、アルルの北東、25キロほどのところにあります。


ゴッホが入院したサン・ポール・ド・モーゾールの精神病院は、町から少しはなれた高原に、薄よごれた白っぽいけだもののように、ひっそりとうずくまっていました。


病院の前は、一面にオリーヴの林が続き、その彼方に、鋭い岩肌を見せた岩山がそびえています。


右手の少しくだったところに、何本か、くろぐろとした糸杉が見えました。


ゴッホは、この病院で、1890年の5月まで、1年を過ごしたのです。


彼は、ここで、周期的に襲って来る発作や、発作への不安に苦しみながらなおも制作を続けるのですが、その作品が、単なる衰弱と評しえぬものであるのはもちろん、それまでの仕事の継続でもなく、ある新たなる展開を示していることは、まことに驚くべきことでしょう。


そこには、アルル時代の作品が持っていたような、緊迫した、しかし一種の静誼につらぬかれた安定はもはや見ることは出来ません。


しかし、だからといってそれは、単なる崩壊、単なる解体ではないのです。


そういう崩壊や解体に身を委ねながらも、それを、言わば普遍的な生のリズムとでも言うべきものに導いているようなところがそこにはあります。


解体が、まさしく表現の契機と化しているようなところがそこにはあるのです。


「こんな絵を描くためには何度も死なねばならない」というのは、彼が、ヌエネン時代に、レンブラントの作品について語ったことばですが、ゴッホも、ここで、死のなかからよみがえっているように見えます。

ゴッホを知る 4

1月7日、ゴッホは退院して家に戻りますが、2月9日、再び病院に連れ戻されます。


その月の27日には、彼の病状に不安を覚えた市民たちの請願で病院に監禁されることになります。


しかし彼は、こうした状態にありながらも、不屈の意志をもって、再び制作にとりかかります。


彼が描いたのは、たとえば、酒瓶、水差し、パイプ、玉ねぎ、煙草入れ、ローソク立て、マッチ箱、テオからの手紙、医学書など、彼の生活を支える品物を描き込んだ『玉ねぎのある静物』。


「子供でもあれば殉教者でもある船乗りたちが、その絵を氷島の漁船の船室で見たら、自分の子守唄を思い出させるあの揺りかごに揺られているかんじ」を表現しようとした『揺りかごを揺る女』。


そして『耳を切った自画像』です。


これらの絵は、当時の彼が求めていたものをおのずから示していて、なんともいたましいのです。


4月の末、彼は外人部隊へ入ろうと考えます。


絵を描き続けうるかという不安、テオへの心づかいなどが激しく燃え上がったための思いつきでしょうが、何とか気を持ち直し、5月8日、サン・レミの精神病院へ入院するのです。

ゴッホを知る 3

そして、いま、自分が観光客めいたのんきな顔つきで、こんなところまでやってくるということが、なんとも奇異なことに思われました。


そのあと私は、ゴッホの生活のあとを求めて、アルルの町を、まさしく犬ころのように歩きまわったのですが、あいにく「黄色い家」も、カフェ・ダルカザールも、あるいは爆撃で破壊され、あるいは区画整理のために取り壊されて、もはやその姿をとどめていませんでした。


私は、そのあとに冷やかに広がる広場や道路を、ぼんやりと眺めていましたが、このような欠如が、かえって私の想像力を刺激したようです。


私は、その空白のうちに、ゴッホが、アルル滞在中に写生にでかけた、地中海岸のサント・マリー・ド・ラ・メールも訪れました。河成鎮一郎氏によると、海の眺めは、ゴッホの、

「地中海はまるで鯖のような、千変万化の色彩で、いつ緑やむらさき、いつ青になるかわからない。


光が変わったと思えば、次の習慣にはバラ色か灰色を帯びているという始末だ」


ということば通りであり、塩からい水が昔ながらの波音をたてていましたが、岸の方は、殺風景な埋立地が続いていて、ゴッホが描いた、鋭くとがった先を持ち、鮮やかな朱や緑に塗られた漁船など、ただの1隻も見ることが出来ませんでした。


しかし、このときもまた、その欠如のうちに、あざやかな船の姿が浮かび上がってくるのを覚えたのです。

ゴッホを知る 2

耳を切り落としたゴッホはすぐに病院に運ばれます。


しかし「着くとすぐに、また、彼の頭脳は狂乱状態に陥った」のです。


この耳切りに関しては、闘牛の際、闘牛士が、切り取った牛の耳を自分の「婦人」か、気に入った女性の客に贈るという習慣に由来するという説もあるようですが、そのようなことについて、あれこれ詮索しても仕方ないでしょう。


わたしたちとしては、他人を傷つけることと自分自身を傷つけることとの区別がつかなくなったひとつの精神状態を見てとれば足りるのです。


このときゴッホが運びこまれた市立病院は、ファン・ゴッホ病院と名前をかえて今も残っています。


先年アルルにでかけたときに、もちろんこの病院も訪れましたが、建物の様子も庭の眺めも、ゴッホが入院中に描いた作品に見られるものと、大して変わっていないようです。


わたしは、男子病棟の前の、ゴッホが画架をすえたという場所に立って、南仏らしい明るい陽に照らされてしんとしずまりかえった庭を眺めました。


すると突然、私の真後ろの窓越しに、何か話し合っている患者の低い声が聞こえてきて、ひどく心を動かされたものです。


100年近く前、あるいはこの同じ病室で、ゴッホが、薬のにおいや、熱っぽい病人のにおいに囲まれて横たわっていたということが、一種の物狂おしさをもって思い起こされたからです。

ゴッホを知る

ゴッホはゴーギャンと2人で暮らしていたことがあります。


しかし事件が起ったのは、その日の夜のこと。


ゴーギャンは、のちに、こんなふうに回顧しています。


「夕方になると、私はいそいで食事をすませたが、ひとりで花盛りの月桂樹の香りをかぎに出たい欲望を感じた。


私は、すでにヴィクトル・ユゴー広場をおよそ通りすぎていたが、その時、背後に聞きなれた小刻みな足どりが、急に発作的に近づくのを感じた。


私はふりむいたが、その時フィンセントは、開いた剃刀を手にして私にぶつかってきた。


私の眼つきは、その時非常にきびしかったにちがいない。


彼は立ちすくんで顔をふせ、家の方へ走り去ったからである」。


家に帰ったゴッホは、左耳の下半分を切り取り、行きつけの娼家の、ラシェルというなじみの女にとどけました。


女は包みをあけて気絶し、大騒ぎとなります。


オーストラリアの文学「国際派作家とノーベル賞作家」・・・その5

ホワイトの代表作の1つである『ヴォス(邦題)』(1957)は、実在するオーストラリア大陸の探検家の日記を基に書かれたものですが、ヴォスというドイツ人の探検家の物語に仕立てられています。

これは文字どおり探検小説、あるいは女主人公ローラとの恋愛小説として読むこともできます。

しかしヴォスが実際に突き進んでいく不毛な砂漠の広がる未知なる大陸を、文化的な空白といわれるオーストラリア社会として比喩的に捉え、オーストラリア文化のアイデンティティを探る物語として読むことも可能です。

この砂漠を、20世紀という神不在の時代に見立て、人間の能力の可能性を探究するという形而上学的解釈も可能です。

オーストラリアの文学「国際派作家とノーベル賞作家」・・・その4

ホワイトの作品もステッドと同様に、リアリズムの伝統に沿うものではなく、ヨーロッパのモダニストたちの流れを受け継ぐものでした。

国内での扱いが決してよいとはいえなかったものの、ホワイトは1973年にオーストラリア人として初めてのノーベル文学賞を受賞し、オーストラリア文学が世界に通用することを示しました。

その後、ホワイトの作品がオーストラリア文学の最高峰として高く評価されるようになったことはいうまでありませんでした。

ホワイトの作品は、20世紀という時代に共通したテーマを扱い、それを表現する媒体としてオーストラリアを用いていました。

オーストラリアの文学「国際派作家とノーベル賞作家」・・・その3

バトリック・ホワイトは若い頃の20年間あまりをイギリス、ヨーロッパ、アメリカなどで過ごし、初期の作品のほとんどを海外で書いています。

しかし、彼の小説の多くは、オーストラリアが舞台となっています。

ホワイトがオーストラリアの自然に強い愛着を感じながらも海外に長く住んだのは、オーストラリアの「文化的空白」に耐えられなかったからであると自伝のなかで述べていますが、帰国してからのホワイトも、オーストラリアの文化的状況に対して、とりわけ彼の作品を評価しない批評家たちに対して苦々しい感情を抱いていました。

彼の作品のすべてがイギリスあるいはアメリカで出版されていることからもわかるように、彼の評価は国内におけるよりも海外における方が高かったのです。

オーストラリアの文学「国際派作家とノーベル賞作家」・・・その2

クリスティナ・ステッドの主要作品であるr子供たちを愛した男』(1940)や『愛のためだけに』(1944)は、親社会、国家など、個人を圧迫する様々な束縛から自由になることを追求するものであり、オーストラリアの特質に限定されることのない普遍的なテーマが扱われており、物語のプロットよりも心理的、哲学的要素に重点がおかれ、作品が書かれた当時のヨーロッパで主流をなしていたモダニズムの系譜を引くものでした。

ステッドが生涯のほとんどを外国で過ごし、出版されたほとんどの作品がアメリカかイギリスで出版されたということもあって、国内では彼女をオーストラリア作家として認めないという風潮も一時期ありました。

しかし、現在ではオーストラリア文学史のなかでも重要な作家としての地位を確立しています。

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